熊本地方裁判所赤煉瓦の保存庁舎

■現存する「保存庁舎」と旧庁舎の概要
明治維新後の近代化の象徴とも言える裁判所が熊本で創設されたのは明治9(1876)年のこと。熊本城敷地内の県庁内に警察署と隣り合わせて開庁した。この庁舎は明治10年西南戦争で大破し、その戦乱の膨大な事件処理のためにも早急な新庁舎の建設が迫られ、京町台の現在地に木造一部2階建て、白壁土蔵造りの庁舎が明治11年10月に竣工した(現在地での初代庁舎)。その後、明治22年地震による建物の劣化や機構改革で手狭になったこと等から同地に建替えられることになり、明治41(1908)年12月に竣工した建物が「保存庁舎」として一部が現存する赤煉瓦の庁舎である(二代目、旧庁舎)。
この庁舎は、現存する正面玄関中央部が2階建てで高く、その両翼に左右対称に伸びやかに諸室を廻らせたE字型平面構成であった。床面積1,133坪(3,742㎡)のほぼすべてが煉瓦造であったために、部材には諫早監獄と福岡監獄で製作された約100万枚の赤レンガが使用された。様式はドイツルネサンス風とされているが、軒が深く反りのある瓦屋根は日本の風土に合せたアレンジである。正面玄関一階の回廊と三連アーチの2階の窓、白い花崗岩とのコントラストが鮮やかな赤煉瓦の壁面は、検察庁を隔てたバス通りからも人の目を引く。近づくと、2階窓の両側に付けられた柱の柱頭やその上の軒飾りに、現在では再生不可能な尊い手作りの技を見ることができる。
昭和50年に現在地での建て替え工事が着工されるにあたり、旧庁舎の正面玄関(主塔部)を保存しながら、隣接地に鉄筋コンクリート造地下1階5階建て3,000坪(9900㎡)の現庁舎が新築され、昭和53(1978)年1月に竣工した(三代目、現庁舎)。
■1974年のムーブメント(全国に先がけた保存運動)
熊本地方裁判所の旧庁舎の取り壊しと新庁舎の新築計画が具体化した1974年10月から翌74年5月までの半年間、熊本大学建築学科を中心に建築学会や地元文化団体と協調しながら、関係機関への要望や街頭署名など、保存のための様々な取り組みがなされた。中でも、地元熊日新聞において1974年1月4日に始まった「家はいきてきた」と題する連載記事は、近代化遺産に対する地域住民の.大きな関心を呼び起こし、40回に及ぶ熊本市内編に引き続き3月からは第二部・県内編が22回に亘り連載され、その前後には大勢の県市民から寄せられた意見、執筆者による座談会などが紙面を賑わせた。さらに、年間テーマを「保存の経済学」として毎号責任編集で紙面づくりが行われていた当時の人気建築専門誌『都市住宅』6月号は熊本大学建築学科グループが編集責任者となり「発掘文化都市熊本」という特集を組んだ

都市計画Town&Country Planning

日本の国土がかくも脆弱になったのは、『都市計画の不在』の一点に尽きる。都市計画という発想、理念の共有と実践が未だなされていない。
一時的な技術革新や海外貿易の変化で都市計画不在のまま農地を宅地に転用してしまったために、基礎集落と共有地や農地の管理がおざなりになり、結果として底支えのある強い農業を維持できなくなってきている。
美容院を住宅に併設したような小規模なものに限り店舗の建築を許可し良好な住宅地と農地との親和性を保持しようとして住居系土地利用が指定された住宅地の先に、たまたま調達できた土地があるということで巨大な商業施設が作られることで、長期的な土地利用によって保持されてきた社会経済システムが崩壊しようとしている。農村地域の秩序の崩壊、生産・流通・消費という地域の経済循環の崩壊、地価形成の崩壊に伴う徴税原資の損耗、極めつけは、商店街のシャッター通り化という地域経済の孵化装置の消失である。
本来、自由闊達な経済活動を支える基盤を整えるのが都市計画の役割である。
地場の生産者と卸業、小売業が連携して地域住民に商品提供する場、意欲的な若者が起業する場、同業種・異業種の店が切磋琢磨する場、そのような場である商店街が崩壊すると、地域の経済循環が滞り、地域経済が決定的なダメージを受ける。
都市計画の発動によって、そのような孵化装置としての商店街を育てること、すなわち、1)(当然のことだが)商業活動を合理的な理由で「商業地域」と定めた場所に限定する。2)公共交通機関のサービス、駐車場、広場公園、散歩道、交流施設等を都市計画として基盤整備する。3)地域住民の活動や起業化等のイノベーションを促すためのNPO等による媒介者としての活動を促進する。・・・などの対応策が必要である。
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住民活動、文化・交流は中心市街地で、お買物・商業活動は郊外SCで、というような「そうなってしまったからしかたがない」的な対応では、ますますわが国の国土を脆弱なものにする。
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いい加減に、とりあえず今が良ければいい、という色んなことに終止符を打たねば。
コインパーキングって、象徴的ですね。とりあえず便利で私もよく使う。地主さんも遊ばせておくよりも、設備投資も小さいし、収益が上がる。皆んな幸せ。でも、こんな状態続けていたら、今より少しでも良好な都市環境を次の世代に残すことなんてできっこない。
§
日本民族は、例えば西部開拓時代のアメリカのように、お金を出し合って保安官を雇い地域社会の安全を手に入れる、というような経験に乏しいので、・・・。本当にそうだろうか?困った時には力を合わせる、というのが人類の当たり前の姿であり、今がまさに困った時なのではないのか。力を合わせないとできないのが都市計画なのだが。都市と農村の土地をどのように使うか、ということは誰かが決めてもうまくいかない。使い方を皆んなで決めねば土地は、どんどん荒廃する。。

後藤商店(熊本市景観形成建造物)

【所在地】熊本市中央区辛島町 【建築年】1919(大正8)年 【構造】木造二階 【建築主】後藤儀平 【施工】(棟梁)馬場恒吉 
■大正の大商家
旧城下町に今も残る町屋の多くが間口2間半から3間半であるのに対して、後藤商店は電車通りに面して11間の間口を持つ大商家の構えである。明治末に山崎練兵場の跡に新市街、花畑町、辛島町、練兵町などの街が生まれ、電話交換局や専売局煙草工場等が建設された。後藤商店もそのような新しい街に金物店を開業し、釘、ネジ、ワイヤーをはじめとする和洋金物を取り扱い、一時期は鋼材も販売されていた。昭和22年に創業者の後藤儀平氏が亡くなられた後も後継者によって営業が続けられていたが、平成10年頃には休業状態となり現在は商品も撤去され、1階の一部にはテナントが入居している。
■洋館と和館の共存
市電道路側の外観は、縦長の上げ下げ窓や軒下の蛇腹、寄せ棟の大屋根から前方に両翼を突き出したシンメトリー(左右対称)に近い2階正面などは洋館のモチーフであり、トラス構造の屋根の架構は伝統的な和風小屋組みではないのだが、大きな鬼瓦や幾重にも重なる棟瓦が乗る重厚な屋根と黒漆喰の大壁とが織りなす様は、日本の伝統的な土蔵造りの佇まいである。
■暮らしと商いの共存
一方、裏手の南側は、一階座敷回りの廊下や7間半の縁桁の通る2階の縁側が庭に向かって南に開いており、純然たる和風の造りである。大工はもとより瓦職人、左官表具師、建具師が総がかりで家づくりに取り組んだ。後藤家に伝わる「家事総禄」によると大正9年4月に井戸掘りが終わってやっと家が完成している。延べ面積約200坪の大商家は、事務室や店舗、応接間などの洋式の部屋と純粋和式の居住空間とが共存し、全体として大商家の生活空間を成している。
■平成の改修
 後藤商店については参考文献に詳しいが、それらの調査時点以降、2005(平成17)年に屋根の葺き替えと外壁の補修、塗り替えが行われている。必ずしも原状に忠実な修復とはなっていないが、建物を取り壊すことなく歴史的環境を現代の生活空間として活かしていく営みの一環ととらえたい。
 近年年末にはライトアップしてます。
 北側電車通りからの外観
 南側庭に面した外観
 2階応接室の鉄製天井板

住友銀行(現三井住友銀行)熊本支店

【所在地】熊本市中央区魚屋町二丁目 【建築年】1934(昭和9)年 【構造】鉄筋コンクリート三階 【建築主】住友銀行 【設計】長谷部・竹腰建築事務所(現日建設計) 【施工】大倉土木 
モダニズム前夜の建築
建物には建築家(アーキテクト)が設計した建築(アーキテクチャー)とそれ以外のビルディングの二通りがある、という認識が西洋の伝統である。お茶を飲むという生活習慣をビルディングに例えると、茶道という確立された分野がアーキテクチャーに相当しようか。明治期のヨーロッパに留学し、当時の先端の建築様式を学んだ草創期の建築家たちは、列強に伍していくという使命感を持ちながら、近代化に必要な諸施設を設計していった。そのような近代建築のおそらく最終局面にこの住友銀行熊本支店は位置づけられる。設計者である長谷部・竹腰建築事務所の竹腰建造は、大学卒業後1913(大正2)年にロンドンに留学し、4年後の1917(大正6)年に帰国し、住友総本店に入社している。住友から独立した後の竹腰の代表作とされる大阪証券取引所(1935年)やその後の同設計事務所の設計による建物には古典的な装飾や様式は見られなくなり、所謂モダニズム建築となっていく。
■銀行建築はなぜギリシア様式?
明治期のヨーロッパ建築界は「新古典派」が主流であったために、その後のわが国の銀行建築にギリシア様式のオーダー(柱頭)が用いられることが多い。コリント様式の住友銀行に対面して建っていた富士銀行熊本支店(1925−1985)にはイオニア式、花畑町に建っていた旧日本勧業銀行(1933−1999)にはドリス式の柱頭が着いていた。
 西洋建築史の正統は、ギリシア・ローマを始祖とするが、なぜ銀行建築にローマやゴシックではなくギリシア様式が多用されたのか?建築史に詳しい藤森照信氏にお尋ねしたことがある。「定説はないように思うが、何か『信用』とか『信頼感』とかと関係ありそうな気がする。」というお応えであった。
アーキテクチャー(建築)が、一般ビルディングと区別されるとすれば、建築の持つそのような精神性にあるのかもしれない。もしそうだとすれば、建築家の役割のひとつは、建築にそのような精神性を吹き込むことにあるのだろう。そう考えると、昨今、小学校の設計などにおいて、ワークショップで地域住民の意識を集めることに多くの時間が費やされているのは、希薄になった建築と人とのつながりを回復しようとしているのだ、と納得できる。
住友銀行熊本支店は、三連アーチの軽快なフォルムの外壁と軒飾のレリーフがエレガントな表情を通りに投げかけているが、それだけにとどまらず、ギリシアに源を発する柱頭を頂くことによって、お客様の信頼を獲得しているのだ。
 コリント様式の住友銀行
 イオニア様式の旧富士銀行
 ドリス様式の旧勧業銀行
 住友銀行熊本支店の軒飾り
 住友銀行熊本支店電車通り側外観

早野ビル(国の登録有形文化財)

【所在地】熊本市中央区練兵町 【建築年】1924(大正13)年 【構造】鉄筋コンクリート4階 【建築主】早野半平 【設計者】矢上信次 【施工】(棟梁)富永松次
■熊本が生んだ建築家 矢上信次
早野ビルの設計者である矢上信次は、1896(明治29)年熊本市生れ。1898(明治31)年に開設された熊本県工業学校(現熊本工業高校)建築科を大正4年に卒業後、26歳の若さで旧九州新聞社屋を設計している。その竣工から一年後、市電沿線のすぐ近くでこの早野ビルが竣工した。新時代の「ビルディング」が熊本に生まれた瞬間だ。先の旧九州新聞社屋のフォルムには、どこか教会堂のような佇まいが見られたが、早野ビルは、関東大震災後の耐震構造を具現化した紛れもない新時代の「ビルディング」であった。ただ、不思議なのは、ビルの各所に付着した装飾だ。ウィーンでは既に分離派の記念碑「ゼセッション館」が1899年に建てられ、それより前にパリではエッフェル塔が造られ、オーギュスト・ペレーによって新素材であるコンクリートを使った建築が次々と生みだされていた。だが、これら新時代の建築にも現代の建築には見られない「装飾」が施されており、鉄筋コンクリートのビルディング早野ビルの設計においても矢上信次は「装飾」を施している。極めつけはデコレーションケーキの上に絞られた生クリームのような、搭屋の窓周りと四階アーチ窓周りだ。これらの装飾が設計者矢上までどのように伝播し、どのように再構築されたのかは謎であるが、交差点の隅を4階にして高く持ち上げ、さらに塔屋を重ね、ドラマチックに際立たせた箇所に装飾を集中させる大胆な手法と外観の骨太なデザインに矢上のバンカラだったと伝えられる人柄が表れている。
■近代ビルと町屋の複合体
早野ビルは、近代的なビルディングであると同時に、伝統的な町屋の複合体となっている。隣接して建つ木造2階建の建物がビルの1階に貫入しているのだ。建主である早野半平氏は、当地で貸しビル業を始めるとともに、1階には自らの営業店舗と住居をしつらえた。木造住居部分は一部増築や改修がなされているが、ビル1階の店舗から住居、庭へと続く町屋の構成は変わっていない。鉄筋コンクリートの防火性能を保つために、ビル本体の隣地に面した壁には窓が開けられておらず、木造住宅との間の開口部には防火のための鉄製の扉やシャッターが厳密に設けられている。関東大震災(1923大正12)年)直後の対応と思われる。

写真1.40年前の早野ビル。左側の建物は建替え前の上田歯科医院(1920-1978)(撮影:1974年)

写真2.屋上搭屋の装飾

写真3.1階北側店舗(町屋の貫入)。奥の住居へと続く

写真4.1階北側店舗中2階。

写真5.格子戸奥の鉄扉

写真6.住宅庭

【参考文献】
熊本県教育委員会熊本県の近代化遺産』 1999年
鹿島出版会『都市住宅7406特集:発掘文化都市熊本』1974年6月号
熊本日日新聞連載『家は生きてきた』1974年1月18日木島安史氏分担執筆

孤風院(旧熊本高等工業学校講堂)

【所在地】熊本県阿蘇市永草 【建築年】1908(明治41)年(現在地への移築1976昭和51)年 【設計】講堂の設計者は不詳(移築設計:木島安史) 【施工】講堂の施工者は不詳(移築工事:岩永組) 
■強靭なロマンチシズムが生んだ半過去の建築
1975年に竣工した上無田神社(熊本市)は、世界の建築界にポストモダンという新しいスタイルの建築として紹介された。『孤風院』は、その設計者である木島安史(1937−1992)の思想と生き方をつまびらかに物語る。もともとこの建物は、熊本市にある現熊本大学黒髪キャンパス南地区に明治期に建てられた講堂であり、図書館を兼ねていたので、隣接してあった赤煉瓦の書庫が今も元の位置に残っている。1975年に老朽化のために取り壊されることになったこの建物を木島は個人で引き取り、自費で移築再建し、15年間住宅として一人で住んだ。65坪の壮大な伽藍の再生に嬉々として取り組み、過酷な自然条件の中で軽やかに住みこなした木島の生き方とともに、「歴史は個人の外にあるのではなく、個人と切り離しがたく内にあるのだ」という木島の思いは今も生きている。不完全、未完の状態が建築との対話を生み、至福の時間を作り出す。創造者としての木島の強靭なロマンチシズムが成し遂げた業である。英語で「棺桶」、フランス語で「玉手箱」を意味するcoffin(孤風院)の命名のとおり、死んだはずの建築が生きながらえ、住み手である木島本人や残された私たちの宝物となった。
写真1.弧風院の会『堂夢の時感:木島安史の世界』カバー写真(撮影:小山孝)

写真2.木島安史が残したスケッチをもとに大理石で敷かれた床面(撮影:冨重清治)

写真3.熊本大学キャンパス内にあった講堂(1974年撮影)

【参考文献】
木島安史著『弧風院白書』星雲社 1991年
弧風院の会『堂夢の時感:木島安史の世界』SD9404に加筆
木島安史著『半過去の建築から』鹿島出版会 1982年
熊本県教育委員会熊本県の近代化遺産』1999年
熊本日日新聞連載『家は生きてきた』1974年2月20日黒田正巳氏分担執筆