早野ビル(国の登録有形文化財)

【所在地】熊本市中央区練兵町 【建築年】1924(大正13)年 【構造】鉄筋コンクリート4階 【建築主】早野半平 【設計者】矢上信次 【施工】(棟梁)富永松次
■熊本が生んだ建築家 矢上信次
早野ビルの設計者である矢上信次は、1896(明治29)年熊本市生れ。1898(明治31)年に開設された熊本県工業学校(現熊本工業高校)建築科を大正4年に卒業後、26歳の若さで旧九州新聞社屋を設計している。その竣工から一年後、市電沿線のすぐ近くでこの早野ビルが竣工した。新時代の「ビルディング」が熊本に生まれた瞬間だ。先の旧九州新聞社屋のフォルムには、どこか教会堂のような佇まいが見られたが、早野ビルは、関東大震災後の耐震構造を具現化した紛れもない新時代の「ビルディング」であった。ただ、不思議なのは、ビルの各所に付着した装飾だ。ウィーンでは既に分離派の記念碑「ゼセッション館」が1899年に建てられ、それより前にパリではエッフェル塔が造られ、オーギュスト・ペレーによって新素材であるコンクリートを使った建築が次々と生みだされていた。だが、これら新時代の建築にも現代の建築には見られない「装飾」が施されており、鉄筋コンクリートのビルディング早野ビルの設計においても矢上信次は「装飾」を施している。極めつけはデコレーションケーキの上に絞られた生クリームのような、搭屋の窓周りと四階アーチ窓周りだ。これらの装飾が設計者矢上までどのように伝播し、どのように再構築されたのかは謎であるが、交差点の隅を4階にして高く持ち上げ、さらに塔屋を重ね、ドラマチックに際立たせた箇所に装飾を集中させる大胆な手法と外観の骨太なデザインに矢上のバンカラだったと伝えられる人柄が表れている。
■近代ビルと町屋の複合体
早野ビルは、近代的なビルディングであると同時に、伝統的な町屋の複合体となっている。隣接して建つ木造2階建の建物がビルの1階に貫入しているのだ。建主である早野半平氏は、当地で貸しビル業を始めるとともに、1階には自らの営業店舗と住居をしつらえた。木造住居部分は一部増築や改修がなされているが、ビル1階の店舗から住居、庭へと続く町屋の構成は変わっていない。鉄筋コンクリートの防火性能を保つために、ビル本体の隣地に面した壁には窓が開けられておらず、木造住宅との間の開口部には防火のための鉄製の扉やシャッターが厳密に設けられている。関東大震災(1923大正12)年)直後の対応と思われる。

写真1.40年前の早野ビル。左側の建物は建替え前の上田歯科医院(1920-1978)(撮影:1974年)

写真2.屋上搭屋の装飾

写真3.1階北側店舗(町屋の貫入)。奥の住居へと続く

写真4.1階北側店舗中2階。

写真5.格子戸奥の鉄扉

写真6.住宅庭

【参考文献】
熊本県教育委員会熊本県の近代化遺産』 1999年
鹿島出版会『都市住宅7406特集:発掘文化都市熊本』1974年6月号
熊本日日新聞連載『家は生きてきた』1974年1月18日木島安史氏分担執筆