ケイタイ・カンニング事件の報道

以前、「建築家から市民を守る会」という会を発足させた肥後モッコスの建築家がいた。50才前であの世へ逝ったので今は居ない。彼の主張は、自分の家なのに建築家が偉い先生だと文句の一つも言えないという庶民感情を代弁したものではない。建築をこよなく愛した彼は、その建築が広く市民に愛されていないのは、建築が万民のものになっていないからであり、建築を建築家だけに独占させずに市民の手に取り戻すべきだ、という主張であった。つまり、市民が「建築家から建築を守る」というふうに言い換えてもよかった。
同類項では、市民が「政治家から政治を守る」ことが最もさし迫った課題だが、大学入試に関しても、市民が「入学試験事業者から入学試験を守る」ということを、現代に生きる我々は、問題意識として常に持っておきたい。入学試験事業者とは主には大学と報道機関を指しているが、お馴染み合格者「全国高校ランキング」をはじめとして入学試験を『メシのタネ』にしているせいか、報道機関の職員に入学試験制度を批判的に見る目、つまり、よりよい制度に変えるために自分も力を尽くそうという覚悟がない。だから、あのようなトンチンカンな報道しかできなかったのではないか。トンチンカンとは、1)チュニジアジャスミン革命が伏線にあったからか、当初組織的なネット犯罪をにおわせてしまった、2)単なる(矮小な)カンニングであることがわかった後も重大な事件として仕立て上げた、3)「逮捕」「業務妨害」など重大さを生成させる言葉を繰り出した。語るべき視点は、未来の日本を創る教育制度であるべきはずが。
インターネットが試験のカンニングという矮小な行為の道具にしか利用されず、報道もそんなことしか重大事件として取り扱えない日本という国はやはり平和ボケなのか。