まちづくりマイスターの誕生

自分のことを「まちづくりマイスター」と呼んで世間に露出するのは、恥ずかしい限りだが、「ひょっとしたら後進の参考になるかもしれない」、「これまでの自分を見つめなおして残りの人生を考えるのに役立つかもしれない」という思いからこの稿を書くことにした。

1.3度の就活
 就活、すなわち一般的な就職活動の経験はなく、きわめて特殊な例だが以下が私の場合の就活だった。
第一の就活≪1975年/熊本大学大学院修士課程修了時(24歳)≫
 1973(昭和48)年春の学部卒業時にはあまり何も考えずに大学院に進んだが、大学院修了に立ち至り、岐路に立たされた。眼の前に2つの別れ道(Y字)が現われるたびに厳しい方、むずかしい方を選びたがった当時の私は、大企業、公務員、大学研究者を遣り過ごし、最後のY字「建築設計事務所か都市計画コンサルタント事務所か」の岐路に立っていた。建築家木島安史氏の薫陶を受けていたので先生のような建築家を目指すことを強くイメージしながらも、そうしなかった理由は肥後モッコスの血とともに次のようなことがあったからだった。
学部の4年生のころだったか、熊本駅周辺整備基本計画という一冊の報告書に描かれた計画図が何とも間の抜けた絵で、そんな絵を受け入れた地元が口惜しく、そのような仕事をする専門事務所が熊本にないからこんなことになるのだと腹の底に怒りをためてしまった。後に、基本計画レベルでは施設計画の精度をいたずらに上げるべきではないことを体得し、その時の私の反応が見事にピント外れであったことに気がつくのだが、血気だけは盛んだが経験などまるでない22、3の若者は、きわめてズサンな情報収集に基づいて心を決めてしまったのだった。
そんな思いを持ちながら大学院2年にあがる春休みに、当時の学生に最も人気のあった建築雑誌『都市住宅』の編集に東京で1か月ほど関わる機会を木島先生からいただいた。打ち合わせを終えて、編集長に「再開発の専門コンサルタント事務所をこの雑誌で知り、手紙を書いて採用の可能性を確かめたいのだが返事がない」と告げると、「今どきそんなめずらしいことをする学生がいるんですね」と面白がられただけで紹介などの話は何も出ず、失意のうちに東京を離れることになった。


しかたなく夏休みを待って大阪にあるその再開発コンサルタント事務所に押し掛けた。すると、副所長が断わりの手紙を出し忘れていた由。しかし、「九州からわざわざ出てきたのだから実習をやっていくか」ということになった。宿所としてあがった副所長のマンションは、1週間前に結婚していたことがその場で皆が知るところとなり、新婚なのでまずかろうということで、所長の藤田邦昭氏の神戸のマンションに居候することに決まった。
 実習のひと月が過ぎて「来春採用」を自宅で藤田所長から告げられ、1975年4月1日から大阪梅田にある都市問題経営研究所で私の再開発人生がスタートした。入社後、24歳から34歳までの10年間は、水を得た魚のように再開発の現場の中でよく泳ぎ飛び跳ねた。飛び跳ねすぎて失敗も引き起こしたがここでは置く。同研究所の受注の中心を成す市街地再開発事業に関する業務の他にも、藤田邦昭和氏の助手(カバン持ち)で商店街活性化の診断・提案に全国各地へ赴いた。

第二の就活≪1985年/熊本への帰郷と事務所の開業(34歳)≫
 「熊本で都市計画事務所を開業したい」という入社の動機を告げていたこともあり、名残は惜しかったのだが、35歳を過ぎると新しいことへのチャレンジが難しくなるという通念にも押され、長子が学齢に達する区切りの年に故郷熊本に10年ぶりに帰った。
 帰郷後1年くらいかけて事務所の設立を準備しようと思っていた矢先に高木淳二氏と出会い、新事務所設立の話し相手ができるとともに、企画に勢いがついた。東京・千駄ヶ谷にあった木島先生の設計事務所で学生アルバイトをしていたころからの知り合いだったが、彼はその後木島事務所に入社し、再会の時は同事務所の熊本支所長を任じていた。新事務所設立の準備会議は、初めのころ彼の仕事場だった明午橋近くの「天の府」という中華料理屋の(宴会をやっていない時の)宴会場で、事務所の場所を古町に決めた後は旧「三角古美術店」の地下の(これもまた宴会をやっていない時の)宴会場で、長時間、時にはゴロンと横になりながら作戦を練ったものだ。2つのことを決めた。一つは都市計画を中心に受注の目標を置くこと、二つ目は建築の設計は基本計画、1/500スケールまでにとどめること、というルールである。
 「計画事務所」という理念にこだわり、設計事務所の登録よりは建設コンサルタントの登録に重きを置いた。2人とも建築への愛は何にも増して強かったのだが、「基本的に建築の設計はしない」と言い切ったのだから、自己矛盾もあったし、周りから見れば生意気に見えたことは想像に難くない。しかし、時代が良かったせいもあり、低空飛行ではあったが、会社がつぶれることはなかった。県内だけでなく、大牟田、久留米、諫早をはじめとするいくつかの都市の中心市街地に関する業務は、小さな相談まで含めると途絶えることなく長期間続いた。熊本市に関しては、商業近代化ローリング事業、上通コミュニティマート構想、熊本市アメニティタウン計画をはじめとする諸計画に取り組み、熊本市都市景観条例の制定(1989年)と大規模建築物等景観形成指針の策定(1992年)では、熊本市職員との協働作業が全国に先駆けた成果をもたらした。

第三の就活≪1994年/人間都市研究所の設立(43歳)≫
 1980年代から1990年代にかけて、我が国の社会は高度経済成長の時代から次の時代へ移っていた。質的な変化を「産業社会から情報化社会へ」という流れで語られることもあったが、「高度」ではないが「安定」−『成長』なのだという成長依存の発想から脱しえていなかった。
 私の仕事の周辺では、一村一品、日本一づくり運動などの地域振興策がかまびすしく喧伝され、中心市街地の問題も都市計画の問題としてではなく、振興策の失敗という切り口で評価されがちだった。問題意識を生成させる受託業務の現場が村おこし、地域づくり等に拡散し、私の中では再開発事業が実現しないことへの苛立ちが増していった。
 そのような閉そく状況を脱することを目指し、やるべき仕事の旗色を鮮明にするために、それまでの「高木冨士川計画事務所」から都市再開発を専門とする事務所を分社するカタチで「人間都市研究所」を設立した。そのころ私の主宰する事務所に入りたいと申し出てきた河野修治が大学院の2年にあがった年であり、旧事務所入社後3年経った上農淑子も人間都市へ移籍することになり、3人で新事務所をスタートさせることになった。
 新事務所をスタートさせるもう一つの具体的な要因が泰平じいさんとの出会いであった。街なかの地主さんと共同で市営住宅を建設する事業の検討を熊本市からの委託業務で開始し、候補地の選定のなかで浮かび上がったのが、今は亡き小川泰平氏である。当時、鉄建公団関東支社長を退任し、民間企業の顧問をされていた氏は、18歳まで生まれ育った古川町の土地を公のために有効活用することに前向きであった。1990年から泰平さんを交えて基本計画を進め、1994年6月に竣工したのが『古川町シティハウス』である。基本計画をお手伝いした縁と、私の両親それぞれに縁があったという偶然も重なり、小川泰平氏から新築なった『古川町シティハウス』のテナントとして入居することを勧められ、私もそれに応えることを喜びとした。
 
△まちづくり協議会(左)とWSワークショップ
工事完成と完成イベント(下/筆者右端)

 この事務所を本拠地とした仕事は、熊本における第2期のプロジェクト群と位置づけられる。熊本県内および福岡県久留米市豊前市大分県佐伯市をはじめとする九州のいくつかの都市の中心市街地活性化に係る計画の立案と事業の推進に取組んだが、その集大成となったのが熊本県山鹿市の『温泉プラザ山鹿』のリニューアル事業(2010年3月竣工)であった。35年前にわが師藤田邦昭氏が手掛けた再開発ビルを弟子である私が大改造のお手伝いをした再開発の再開発で、既存建物を減築するという極めて現代的なテーマへの挑戦でもあった。
それらの受託業務と並行して1997年に設立した熊本まちなみトラストという市民団体の事務局を人間都市に置き、事務所のある旧城下町、新町古町の歴史遺産を生活環境の回復のために活かすことに、地元住民の一員として取り組んできたことも、今となっては受託業務とともに車の両輪の一つと位置づけられる。その車のことを私は、ライブな都市計画、または『まちづくり都市計画』と呼ぶことにしている。

2.まちづくりマイスターへの道
 ―プランナー・コーディネーター・コンサルタント
 私が「まちづくり都市計画」に携わってきた35年間を、概ね10年一区切りとして3期に分けてみた。これをプランナー、コーディネーター、コンサルタントを経て『まちづくりマイスター』へと至る養成課程に見立てて概観してみよう。
 まず第1のステップがプランニング作業をしながらコーディネーション業務を学んでいく課程である(20代〜30代)。プランニングの対象は、建築計画、資金計画、権利変換計画など持ち場によってさまざまだが、計画の立案作業は事業という一つの目標に向かってコラボレーションする複数の作業の一つであり、自分のポジションに対する自覚とともに他の仕事への理解も深めることが重要だ。
 第2のステップはコーディネーション業務を担いながらコンサルティング業務を学ぶ課程である(30代〜40代)。事業を推進するために必要な企画調整、ワークショップや会議の運営をプロジェクトに応じて組み立てることが核となる業務である。
 第3のステップは、コンサルティング業務を完成させる課程である(40代〜50代)。まちづくりマイスターへの最終課程と言ってもよい。コンサルティング業務とは、事業統括または指導・助言業務であるが、事業関係者や作業従事者のやる気(モチベーション)を高めるテクニックを自分なりに磨いていくことも必要だ。
 以上見てきた3つのステップは、プロジェクトを推進するのに必要な機能であるプランニング(計画立案)・コーディネーション(企画調整)・コンサルティング(指導助言)という3つの要素そのものである。事業が行き詰っているところでは、たいていこの3つの機能の投入にボタンの掛け違いが起きている場合が多い。
 翻って、現在の私はと言うと、最終課程の第3ステップを終えて、まちづくりマイスターとしての地歩は築いてきたつもりなのだが、何か寂しげである。組織に属していないものの宿命なのかもしれない。定年退職などが準備されていない一匹狼が、次のステップをどのように歩めばよいのか、今後の課題である。