再生と創造

再生とは、作り変えることで、創造とは全く新しく創り出すこと。
はたしてそうなのだろうか。
まず、何もないところから新たに何かを創り出すということは、ありそうで実はありえない。まっさらのキャンパスに加えた最初の一筆のことを「まるっきりの手つかずの作り出し」のように思ってしまいがちだが、その一筆も実は描き手の脳内で生成される過去からの表出物にすぎない。手の動きにしても身体能力を逸脱した描画は不可能だ。また、「真っさら」のキャンパスというものも実はあり得るものではなく、そこにあるキャンパスは、自然素材が生産技術や流通を経て必然的に、過去からの遺産として、そこにあるのだ。毎日キャンパスに向かっているプロは、そのようなことは身をもって体得していることなのだが、素人は「創造」ということを抽象的に捉えてしまい、ゼロから創り出すことを創造的なことだと思ってしまいがちである。
一方、「再生」のほうはどうか。
空き家になった町屋の再生、被災地の復興と再生、等、現場には必ず具体的な担い手となる『当事者』の姿がある。クリエーターとは、そこに居て、その場の過去・現在・未来を引受ける『当事者』のことなのではないか。少し飛躍するが、ショパンがあのような麗しき楽曲を創り出せたのも故郷であるポーランドの伝統的な調べに心酔し、それに想像的に手を加え作品に仕上げたのだ。シェイクスピアにしても、ビートルズにしても、過去への共感や共鳴が創造の源になっていたことは間違いない。
そうなんだ、過去の何かに心酔し、その世界に今いる自分も少しお邪魔すること、それが『創造』の本質。
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