記憶についての断章

事務所が借りている部屋の東京のオーナーに久しぶりの訪問を受けた。
この方たちと初めてお会いしてから15年近くになる。古川町シティハウスの(熊本市との)共同建築者である故泰平爺さんとの出会いが1992年なので20年前。その後、娘さんたち、お孫さんたちと少しづつ親交が深まっていったのだが、泰平爺さんと縁のあった私の両親も父が18年前、母が12前に逝き、泰平さんも14年前、その長女光さん、そして御長男様も去る11月の泰平さんと同じ日に身まかられた。その亡くなられたご子息の娘さん二人と叔母様が供養のため熊本のお寺を訪ねて来られたのだった。
訪問を受けたお三人と話をしていて、お孫さんたちが立派にキャリアを重ねられていることに感慨を深くしたので率直に申し上げると、「あのころは10代の学生だった私達も30代になったのだからあたりまえです」と大笑いとなった。

たぶん、人間には記憶装置などというものはなく、実態としては、絶え間なく活動している脳神経があるだけなのだろう。久しぶりにお会いして話をすると、潜在意識の下で神経細胞が生成している信号の一部が意識に上ることになるのだろう。
それらの記憶のうち言語化や図象化が可能なものについては、デジタル変換して一元化し、その管理と視覚化が一枚のタブレット端末で可能になった。
The Tablet
タブレット端末はあまりたくさんない方がユーザーはうれしいので、テレビやパソコンや通信機器などは今後1枚のタブレットに統合されシンプルになっていくだろう。