コンピューターとのお付き合い

2010年12月31日に事務所のサーバーがクラッシュした。バックアップ機能のあるサーバー(2テラ)の4枚のハードディスクのうち3枚に傷害が起きていたのに(ランプの点灯などの)シグナルに気がついていなかったのだ。今やっと復旧しつつあるのだが、予期せぬ復旧作業の出費は痛い。だが、強い気持ちで外部に依存しない「自己防衛機能」が強化できれば、災い転じて福が正月から来たということで芽出度い。
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今月末にテーマは何でもよいからという卓話の依頼があり、それに関する1500字程度の原稿も求められたので、人前で話す初めてテーマだったが、以下のコメントを作成した。
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コンピューターとのお付き合い
 コンピューターと私がはじめて出会ったのは高校生の頃、第1回NHKコンピューター講座を視聴した1960年代後期であった。番組中「ヤーホーフォートランランラン」という替え歌を流すという笑える場面もあったが、それも「電子計算機」が世間一般的にはまだなじみのないモノだったことの証左であろう。その頃の私は、2進法で足し算をする論理加算機を文化祭に出品したりする数学好きのミーハー少年だったので、電子計算機には大いに親近感をもっていたのだが、加えて、その講座で「プログラム言語」に馴染んだので、後に研究や仕事で都市に関するデータの集計や解析にコンピューターが必要になった時にもごく自然に使いはじめた。
 PCすなわちパーソナルコンピューター以前の「電子計算機」の時代には、フォートラン等のプログラム言語を使って自分で書いたプログラムをパンチカードに打ち込み、それとデータカードを輪ゴムで束にしたものをリフトに乗せてオペレーターに渡す、すると、階上の「電子計算機室」で演算処理された結果が行印字機でプリントアウトされてリフトで下りてくる・・・という、今から思うとのんびりしたやり取りがあった。しかし、大量のデータ処理が可能であること、当時「パッケージ」と呼んでいた既成のプログラムを使うと、数量化理論を用いた高度な解析もできることなど、集計や分析作業に、もはやコンピューターはなくてはならぬものになった。
 本格的なPCの時代になる1980年代後期以降は、演算処理というよりはプレゼンテーション手段としてコンピューターは手放せないものになっていった。今思うと1985年のマキントッシュとの衝撃的な出会いの時に、その後の予兆があったような気がする。玩具のようなアップルコンピューターの一体型の小さなモニターで初めて『アイコン』を見たり、『お絵描きソフト』で作図したりした時、何かとんでもない親しみを感じたことを忘れることができない。その後しばらくすると、漢字のテンやハネの美しい輪郭線を数式で生成させるポストスクリプトという手法が現れるに至って、「敬愛の念をもって接してきた印刷屋さんが、もはや要らなくなるな」と直感した。その後、予想通り活版、タイプ、写植という文字印刷の職人的伝統文化は衰退していったが、中でも美意識と論理のカタマリである写植文化を『PC-フォントの世界』が十分に引き継げなかった、という無念さを拭えないのは私だけではなかろう。また、私の職業分野の基礎的作業に、たとえば、ある街区の数百棟の建物を構造、建築年代、所有関係別に色分けして地図化する作業があるが、従来手作業で数日かかっていたその作業がPCを使えば数時間で完了し、しかも面積の集計も同時に行うことができるようになった。確かに、早くてきれいにプレゼンテーションできて便利にはなった。
 しかし一方で、建築学会の最近の話題だが、電子化されたデータは再現するためのハードやソフトの有効期限が短く、保存媒体としては「陽炎」のように短命であるので、「長期保存を必要とする大切な図面は、紙で保存すべし」という結論に至った(建築雑誌2010-11月号特集「エフェメラ(陽炎)」)。コンピューターで作成した図面も一度プリントアウトして紙で保存する方が確実だ、というのも皮肉な話ではあるが、紙で1000年以上保存されている実績が確かにある一方、電子的なツールの陳腐化するスピードはめっぽう速い。
人間の脳にはコンピューターの記憶装置のような記憶物質などはなく、神経細胞で組まれた回路に微弱な電流が一瞬流れた時に再現されるものが、どうも『記憶』という現象のようだ。「ほとんどの情報は、それぐらいのはかなさで保管すればよい」と割り切れば、ウエブの「こちら側」ではなく「向こう側」に情報を保管する「クラウドコンピューティング」を進めてもよいかな、と思ったりする今日このごろである。